地球が一個しかないのに、永遠に成長し続けるGDPはあり得ない。と、みんな気づいているはずだ。


なのに、おじさん達は自分たちがやって来た経済活動(政治活動)を良しとしておかないと、自分たちの人生を否定することになる、否定するのが怖いし、否定されるのも怖い。だから、延長線上でなんとかできないだろうかと考える。結局だれも現実を直視せず、とりあえず自分が生きている間はそれでいいとしようとする。
多くの世界的な課題の原因がここにある。

GDPは、物不足の時代に豊かさを測る尺度としてつくられたもの。ものがあふれる時代において、GDPではもはや社会の豊かさを適切に測れないのではないか。と多くの人は思っているはずです。病人が増えれば増えるほどGDPは増えるのだから。

『ポスト資本主義 科学・人間・社会の未来』広井 良典 著(2015)より

GNPという指標が生まれて85年、それが経済政策と結びついて65年、我々は素直に経済成長は正、GNPは拡大しなければいけないと思い込んでいないか?そもそも経済成長は政府の目標と成り得るのであろうか?技術革新によって生じた変化はGNPによって計測可能なのであろうか?

1968年に暗殺されたアメリカの政治家ロバート・ケネディによる演説を紹介したい。

※GNP(国民総生産)は今日のGDP

私たちはあまりにも長い間、物質的な豊かさの蓄積を、人が本来持つ素晴らしさや共同体の持つ重要さよりもはかるかに優先させてきた。
GNPの数字には、大気汚染やたばこの広告、事故死者を運ぶ救急車も含まれ測っている。玄関の特殊な鍵もそれを破って侵入する犯罪者たちが収容される牢屋も。原生林の破壊も、都市化に伴う美しい自然の喪失も。
戦争で使われるナパーム弾も、核ミサイルも、市民運動と対峙する警察の装甲車も。子どもたちにおもちゃを売るために暴力を美化するテレビ番組も。
けれども、GNPは子どもたちの健康や教育の質、遊ぶことの喜びは測れない。
詩の美しさ、夫婦の絆の強さ、市民の開けた議論の聡明さ、公務員の誠実さも含まれない。
私たちのユーモアや勇気、知恵や学び。私たちの思いやりや国への深い愛情と態度も。
要するには、GNPが測るものは、人生を価値あるものにしてくれる以外のものなのである。

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